幼少期から現在までの農業との関わりや想いをご紹介。
農家の子どもの喜び
鉢花農家の次女として誕生し、
土や植物が身の回りに当たり前にある幼少期。
お外に出て遊ぶのが好きだった。
仕事で使う一輪車を押したり、
自転車で走りまわったり。
泥団子作りにハマった頃は、
最後の仕上げて使う土にこだわりがあって
「あの場所にある、この土じゃないと」
なんて母や大人に話している記憶もあります。
小学生の頃になると、
家に農協職員さんがくることもあり
ごっこ遊びの一つに「農協さんごっこ」が
あったりもしました。
小さい頃から声が大きめで
家の中でも大声で遊ぶこともしばしば。
でもお隣の家と少し距離があるから
家の中でも外でも
大きな声を出して、思いきり遊ぶことができました。
農家の特権を最大限に活用していたように思います。
農家の子どもの恥じらい
ただ小学校3~4年生になって
物心がついてくると
だんだん農家だからこその悩みにもぶつかりました。
登校時、必ず土の上を歩かなければ道路に出れなかったため
新しい靴も結構早い段階で真っ黒になる。
雨の日は、家を出るとすぐに雑草で足元が濡れる。
「あーあ」なんて思うことも増えてきました。
そんなある日。
習い事で通っていた場所は、床が白いために
ゴミや汚れがあるとすぐに分かります。
その白い床に、たくさんの土が落ちていました。
ふと自分の席の下を見たら。。
私の座っている椅子の下にたくさんの土が。
そうなんです。
靴底の隙間に入った土が乾いて落ちていたのです。
汚していた犯人が私だったことに気づき、
とても恥ずかしくなりました。
今までも気づいていなかっただけで
私が汚していることがあったのかも。。
そう思うと、とても恥ずかしくて。
土の上を歩くのが、嫌になったこともありました。
でも、そんな恥じらいも徐々に薄れていきました。
そして、
農業高校・農業大学に進学しました。
農業を離れ、憧れの東京での社会人生活
大学卒業後
スーツにヒールを履いて大都会を
颯爽と歩く社会人に憧れ
農業とは全く異なる世界へ飛び込みました。
いつか農業をやりたい
という想いは心の片隅におきながら。
漠然と考えていた私の心の想いが鮮明になったのは
東京での社会人生活があったからです。
たった6年という短い時間ですが、
たくさんの方からたくさんのことを学び、
夢中で仕事に打ち込める環境は刺激に満ちあふれ、
もっともっとという向上心をかき立てられました。
ですが、自己管理が出来ない半人前の私は
心身を崩してしまいました。
再び農業の世界へ
実家に帰省したとき
今まで当たり前で気づきもしなかったことが
目の前でキラキラと見えることに驚きました。
風を肌で感じ
呼吸が整っていくのを感じました。
目まぐるしい東京時間から解放され、
時間が巻き戻されていくようなゆったりとした流れを感じました。
それから
固いコンクリートではなく
衝撃を吸収してくれる柔らかい土。
ギラギラしたライトで照らされた夜空ではなく、
優しい星たちのまばゆい光。
このような場所に身を置き
いつか農業を、という想いは
日に日に強くなっていきました。
そしていよいよ会社員生活を終え
農業に挑戦することを決意しました。
今とこれから
農機具を使うことが怖かったので
鍬などアナログな道具の使い方を祖母に教わりました。
ものの数分使っているだけで
ぐんぐんと体力を奪っていく重たい鍬。
畝を切る動作は、腰痛を加速させます。
雑草との対決は鎌。
イネ科の雑草は切るのにも一苦労で
手のひらにいくつもマメが出来ます。
農薬を使いたくなかったので
大の苦手な虫も捕殺します。
捕殺といっても
捕まえた虫を逃げないように容器にいれ
最終処理場となる祖母へ託します。
栽培も一筋縄ではいきません。
なぜかミニ人参は土の中で腐ってしまい
全く収穫出来ませんでした。
ゴボウもやっと芽が出たと思ったら
大半がなくなってしまい
奇跡的に残り収穫したものはショボショボでした。
トウモロコシはアワノメイガの餌食になりました。
全く農薬に頼らず栽培することの難しさ、
土作りの難しさを教えてもらった一年目。
まだまだひよっこの私ですが
果樹を中心に農薬に極力頼らないような
栽培を目指して奮闘しています。
私が帰省したあの日、
自然からもらった元気を
たくさんの人にも感じてほしいという想いから
いつか観光農園をオープンしたいと考えています。
少しずつですが生産物の販売も始めました。
頑張っている女性に農業を通してエールを送りたい。
想いは変わることなく、
失敗を繰り返しながら植物たちと向き合っています。